【奈良】興福寺の創建の由来と歴史【簡単にわかりやすく】

大勢の観光客でにぎわう興福寺五重塔 各種お役立ち情報

五重塔で有名な「興福寺」の辿ってきた歴史はどのようなものなのか

奈良の観光スポットとして、言うまでもなく「東大寺」や「春日大社」と並ぶ最大の見どころとして有名な「興福寺」

興福寺は「近鉄奈良駅」の徒歩圏であることもあり、年間を通して大勢の人々で賑わう興福寺は、「五重塔」や「阿修羅像」などで特に有名な存在となっていますが、平成の終わりには「中金堂」の再建工事が完了し、お寺の風景は一層彩りのある、迫力のあるものへと変化していっています。

一方で、興福寺の境内は、薬師寺や唐招提寺のような明確に区切られたように見える「境内地」(伽藍)を持つものではありません。むしろ、奈良公園の芝生広場などが広がるエリア一帯に「お寺の空間」があるような雰囲気を漂わせています。

もちろん、お寺というものは本来は何らかの敷居で囲まれたり、大きな門があったりするものであり、奈良の大寺院であった興福寺も当然かつてはそのような設備を備えていたということになります。

つまり、これは昔の巨大なお寺から、様々な苦難を歩み変化をしてきた分厚い歴史を表している状況とも言えるのです。

今回は、そんな「興福寺」の辿ってきた歴史について、なるべく簡潔にわかりやすくまとめてみました。


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創建の由来

現在は「奈良」の象徴的観光スポットである「興福寺」ですが、その創建の由来はどのようになっているのでしょう。

興福寺の直接の創建の由来とされているものは、有名な歴史上の事件である「大化の改新」を行った人物として有名な藤原(中臣)鎌足が重い病気になってしまった際に、その病気が治るように鎌足の夫人である鏡大王(かがみのおおきみ)が、天智天皇8年(669年)に釈迦三尊像を本尊として、山背国山階(現京都市山科区)に創建することになった山階寺(やましなでら)と呼ばれるお寺とされています。

要するに興福寺は、奈良時代に始まった存在ではなく、それ以前から、そして奈良以外の地(現在の京都市)における歴史も前提としているのです。また当初から「藤原氏」のためのお寺であったという歴史を持っているのです。

さて、その山階寺ですが、壬申の乱が起こった年である天武天皇元年(672年)には、現在の奈良県橿原市にあった「藤原京」に移ることになります。

そこでは「山階寺」から、現地の地名である「厩坂(うまさか)」をとって「厩坂寺(うまやさかでら)」と名乗ることになりました。

奈良時代になると、その他のお寺と同様に、藤原京から平城京の地に厩坂寺も移転することになります。平城京の造営とともに移転されたお寺は和銅3年(710年)の遷都の年に現在の敷地にすぐに建設されたかは定かでありませんが、少なくとも平城京遷都からしばらくの間に「興福寺」と名を変えた立派なお寺が現在の地に建設されることになりました。

奈良時代の興福寺 ~発展の歴史~

現在の地に興福寺が建設され始め、奈良時代が進んでいくと、次々と新しい仏堂が建設されていくことになりました。

遷都の時期、興福寺移転当初の時期には2018年に再建されたものと同規模の「中金堂」が完成したほか、養老4年(720年)の藤原不比等の死にあたっては、その慰霊のために「北円堂」が建設されることになりました。

また、この時期からは「藤原氏のお寺」としてのみならず、「造興福寺仏殿司」という朝廷によるお役所が設けられ、国家的なプロジェクトとして興福寺の整備が推進されていくことになりました。奈良時代は「藤原氏」の影響力が大変強い時代であったため、「藤原氏」のために建てられた「私的なお寺」であった興福寺の存在が公的な、大変大きな存在に高められることになったのです。

その後も神亀元年(724年)には現在再建されている東金堂が、天平2年(730年)には「五重塔」が建設され、堂内には多数の仏像が安置されることになりました。また天平6年(734年)には現存しない「西金堂」も建設され、興福寺の整備は次々と進展していくことになります。

そして最終的には「講堂」や「食堂」と呼ばれる施設や興福寺の玄関口としての「南大門」といった施設も整備される中で、奈良時代も後半に差し掛かる時期には、奈良を代表する巨大寺院としての「興福寺」という存在がほぼ完成することになりました。

なお、奈良時代には「法相宗」と呼ばれる宗派の拠点として発展していった興福寺を代表する僧侶としては、「頭だけが落ちて来た」とか「肘だけが落ちて来た」という奈良の地に残る「奇怪な逸話」でも有名な「玄昉(げんぼう)」が知られています。


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平安時代の興福寺 ~南都北嶺と軍事力~

さて、奈良の地に数多く存在した巨大なお寺が平安時代に入り、次第にその勢力を衰退させていく一方で、「藤原氏」のお寺として成立した歴史を持つ興福寺は、平安時代に入ると一層の繁栄へと向かっていくことになります。

弘仁4年(813年)には、五重塔に次ぐ現在の興福寺のシンボル的存在としても有名な「南円堂」が創建されました。また皇族や摂関家といった特別な身分の人々が住職を務める寺院である「門跡寺院(もんせきじいん)」として、興福寺には「一乗院」と「大乗院」と呼ばれる寺院が生まれることになり、いずれも明治の廃仏毀釈の時期まで存続することになりました。

また平安時代は、同じく「藤原氏の神社」として知られる「春日大社」と「興福寺」の関係性が強まった時期でもあります。

「神仏習合思想」と呼ばれる形で、「仏教」という存在が日本古来の存在とされる「神道」に対し優位に立つ傾向が強まる中で、興福寺もまた春日大社に対する支配的な影響力を強めていき、春日大社で読経をしたり、現在でも「おん祭」で有名な若宮神社を興福寺が創建するなどといった形で傘下に収めていきました。

このように多方面に確固たる影響力を築いていった興福寺は、大和の地に多数の荘園・領地を有することになり、経済的にも、政治的にも全国規模の勢力として繁栄を極めることになりました。また「僧兵」と呼ばれる軍事力を持つなど「独立した力」も持ち合わせるその存在は、同様の力を持っていた「比叡山延暦寺」とあわせ、「南都北嶺」と呼ばれました。

しかし、繁栄を極めた興福寺も、東大寺と同様悲惨な災厄に見舞われることになります。

平安時代末期である治承4年(1180年)に奈良のまちを火炎で覆い尽くした平氏一族の「平重衡(たいらのしげひら)」らによる「南都焼討」では、奈良のまちが大火災で覆われ、大仏が融け落ちたことで知られる東大寺の被害のみならず、興福寺も同規模の甚大な被害を受けました。

この火災で基本的に全ての仏堂、建築物が焼け落ちてしまった興福寺は、その後再建への道筋へと進んでいくことになります。

しかし、この時本当に全てが焼け落ちてしまったため、現在存在する興福寺の建造物には、奈良時代由来のものが一つもないという「歴史の影」を落としています。(東大寺は規模が大きいため、法華堂などの一部が残りました)


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鎌倉~江戸時代の興福寺 ~勢力は衰えつつも~

戦災で壊滅することになった興福寺ですが、その直後から「信円」「貞慶」と呼ばれるお坊さんが再建に向けて特に奔走することになります。結果として藤原氏や朝廷の力を借りて復興が進められることになり、当時の戦乱の世の影響を受け、そのペースはゆっくりとしたものでしたが復興が進められ、各仏堂、建築の再建が行われていくことになりました。

また、鎌倉時代に入ると、東大寺の阿吽などでも活躍した運慶ら「仏師(仏像をつくる職人)」が興福寺の再建でも活躍することになりました。復興に当たっては金堂などの主要な仏像は京都の仏師が、それ以外は運慶ら奈良の仏師が担当することになり、現在も残る当時の「仏教芸術」の極みとも言える多数の仏像を生み出しました。

なお、復興の後も、平安末期の壊滅的戦災のみならず何度も火災によって興福寺の建築物は被害を受けていく事になり、現存する東金堂・五重塔などは室町時代に再建されたものとなっています。

なお、藤原氏ら公家の勢力は平安時代をピークに時代が進むにつれ格段に落ちていくことになり、戦国時代、江戸時代と武士が支配する時代へと移行していくなかで、興福寺はその勢力を弱めていくこととなり、領地は江戸時代には2万1000石とそれなりの規模を保障されていましたが、平安時代のような繁栄を極めることはありませんでした。

そのように、江戸時代に入ってからも衰退傾向とは言えどうにか一定の規模を守っていた興福寺ですが、江戸時代中期の享保2年(1717年)に発生した大火災は再び主要な仏堂・建築物を全て消失させる大災害となりました。

この際現存する東金堂、五重塔などはどうにか焼け残りましたが、南円堂・中金堂・西金堂・南大門などの主要な建造物が焼失してしまい、南円堂などはどうにか20年程で再建されることになりましたが、かつてのような経済力を持たない興福寺では全ての再建は難しく、中金堂などは本来の壮大な姿ではなく、小さな仮金堂として再建されるのみとなってしまいました。


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明治以降の興福寺 ~消滅の寸前から~

上記のように、江戸時代から衰退の兆しは大きかった興福寺ですが、明治維新とともに訪れた「廃仏毀釈」のうねりは、東大寺などと比較すると格段に大きなものであり、興福寺に創建以来最大のピンチを招きました。

なんといっても「春日大社」を支配する地位として君臨していた興福寺が、仏教を排除して「神道」の国をつくるという「廃仏毀釈」のうねりの中で、「春日大社」の下の立場として、興福寺の僧侶は春日大社の「神官」として働くことを強制される屈辱的な状況となってしまったのです。

そして、一部の境内地を除き全ての財産を没収され、興福寺と名乗ることすら許されないような状況に一時は追い込まれます。

この過程で、奈良市民には有名な「五重塔が25円で売りに出される」というようなエピソードが飛び交うようになるなど、興福寺は事実上「消滅」したお寺に近い状況となってしまうのです。

しかし、廃仏毀釈はどうにか一時的なうねりにとどまり、明治の中頃からは全国的にも再び仏教の力は盛り返していくことになります。

興福寺は一度ほとんど消滅してしまっていたため、その勢力を一気に盛り返すことはできませんでしたが、「興福寺」と再び名乗って、境内地を整備し、仏像などの文化財を修理していくといった取り組みは復活することになったのです。

その後は現在に至るまで、一見すると「奈良公園の一部」のようにも見える境内地という状況には変わり在りませんが、大量の仏教美術・仏像を保存していたということもあり、戦後は日本有数の観光スポットとして繁栄するようになりました。近年では「中金堂」復元工事などが行われるなど、かつての興福寺を取り戻していこうという取り組みが進められる中で、興福寺の境内も次第により歴史の風格を伴いつつ、にぎやかな風景へと変化していっています。


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まとめ

以上、奈良観光の拠点である「興福寺」の創建の由来と歴史を簡単にまとめてみました。

奈良時代以上に平安時代に繁栄した歴史を持つ一方、その後は東大寺以上に苦難の歴史を歩んできた興福寺。復興が進む中でも、現在の規模はかつての栄華と比べると小さな規模になってしまっていますが、観光スポットとしての存在感はますます高まっており、注目が集まる中でこれからも様々な建物が再建されていく可能性もあると言えるかもしれません。

興福寺は近鉄奈良駅から徒歩5分程度の距離であり、奈良観光では最もアクセスしやすい観光スポットです。


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