大仏池から大仏殿方面を望む風景

【わかりやすく】奈良・東大寺の創建の由来と歴史【焼失と再建の連続】

奈良最大の寺院である「東大寺」の歴史はどうなってるの?

奈良最大の観光スポットである「東大寺」。その境内には世界有数の木造建築である「東大寺大仏殿」や眺めがよく「お水取り」で有名な「二月堂」などがあり、常に多くの観光客でにぎわっています。

また東大寺は多数の国宝・重要文化財の「仏像」を持っていることでも知られ、仏像ファンには「聖地」に近い存在ともなっており、「東大寺ミュージアム」という博物館を自前で建設したことでも知られています。

そんな巨大なお寺である「東大寺」。その「歴史」は奈良時代にまでさかのぼるものとなっており、幾多の苦難を超えて現在に至っています。

今回はその東大寺の「歴史」をなるべくわかりやすく簡潔にご紹介して参ります。

創建の由来

まずは、東大寺が建てられたその「創建」の由来を見ていきましょう。

東大寺が現在広がっている場所には、東大寺が出来る前からいくつかの小さなお寺があったようで、その中には「金鐘寺(こんしゅじ・きんしゅうじ)」と呼ばれるお寺がありました。

その「金腫寺」などは奈良時代の天平13年(741年)に、仏教で国を守っていくための拠点となる「国分寺・国分尼寺(金光明寺・法華寺)」をつくるための「詔(天皇の命令)」を受けて、「大和金光明寺」として重要なお寺とされました。

これの「大和金光明寺」と呼ばれるお寺が東大寺の直接的な「前身」の寺院とされています。

ちなみに、この時期は、奈良時代ではあるのですが、一時的に現在の滋賀県甲賀市の陶芸で有名な信楽エリアにあった「紫香楽宮」や、奈良市の隣の木津川市にあった「恭仁京」とよばれる都に一時的に移転していた時期となっています。

そのため、現在の「東大寺」の大シンボルである「大仏様」を作る計画についても、その計画が初めて天平15年(743年)に指示された時は、「紫香楽宮」周辺のお寺に「大仏」を作る計画になっていました。

しかし、天平17年(745年)には平城京へ戻ることになり、その「紫香楽宮」の「幻の大仏」を作る計画はなくなってしまいました。

奈良の地に戻った天皇は、当然ながら奈良の地で大仏をつくることになり、その大仏をつくる場所として選ばれた地が、大和の国分寺である「大和金光明寺」の敷地だったのです。

つまり、最初は「東大寺」の元となるお寺と「大仏様」の存在は特に関係が深かった訳ではないのですが、この時点で「大仏様」の存在と後の「東大寺」となるお寺が同じ場所、同じお寺となることになったのです。

そして、大仏様がつくられ始めるころには、「東大寺」という呼び名も使われ始めるようになっていきました。

 「大仏様」をつくる作業

さて、「東大寺」と同じ場所に造られることになった「大仏様」ですが、その建立の作業は途方もないものでした。

この大仏の建設にあたっては、「行基」さんと呼ばれるお坊さんリーダー的存在として活躍しました。行基さんはそれまでもため池や橋など、庶民の生活に役立つ施設を多数建設する際に指揮を取ってきた人であり、この大仏建立にあたってはその実績を見込んで聖武天皇が直々に行基さんを建立作業の責任者にスカウトしたのでした。

行基さんは全国を回り、様々な人に大仏様を建てる意味をわかりやすく説明し、建てるための資材や労働力を確保するために奔走したとされ、実際に大仏を建てるために延べ数十万人の人々が働き、膨大な量の金や銅が集められました。

そして天平勝宝4年(752年)4月9日、ついに完成した大仏はインドから渡来したお坊さんである菩提僊那(ぼだいせんな)が率いる「開眼供養会」で盛大にお披露目されることになったのです。

ちなみにこの時には、大仏を安置するための「大仏殿」はその余りにも大きな建築規模もあり、まだ完成していなかったと言われています。

奈良時代の繁栄 ~南都七大寺の中心~

このように、大仏中心のお寺として華々しく生まれ変わることになった東大寺ですが、大仏開眼の時期にはその他にも様々な建築が設けられ、仏教研究の拠点にもなるなど、繁栄を極めることになりました。

実際に、この時期には、大仏殿の近くに「東塔」「西塔」と呼ばれる現在の「興福寺五重塔」よりも大きいとされる巨大な塔が建設されたほか、大仏殿の裏側にも仏教の研究に用いられる巨大な「講堂」が建設されました。

また中国から渡来したお坊さんである鑑真和上を招き、お坊さんとして認められるための「戒律」を受けるための施設である「戒壇院」も建設されるなど、奈良時代の終わりにかけて東大寺境内の整備が充実し、ほぼ完成するにつれて「南都七大寺」の中心的存在として発展していったのです。

平安時代の東大寺 ~焼け落ちるまで~

さて、奈良時代には繁栄を極めた東大寺ですが、平安時代に入ると、その広々としたお寺の敷地には荒廃が見られるようになっていきました。余りにも巨大な建築を生み出し過ぎたばかりか、信仰の在り方にも変化が見られた時期でもあり、奈良時代ほどの勢力を維持できる状況ではなくなっていったのです。

もちろん、東大寺は都が京都に移転したといっても、自前でたくさんの「荘園」などを抱えている以上、そう簡単にはびくともしません。

「南都七大寺」と呼ばれたお寺や奈良に存在した巨大なお寺のうちの多数が、奈良時代以降見るも無残な衰退を重ね、江戸時代頃までには当初の規模とは比べものにならないほど荒廃していった状況と比較すると、東大寺は比較的その規模を維持することはできました。

平安時代中頃からは、その財政力も生かして大規模な修理をあちこちで行っていき、東大寺の再興を図る取り組みも進められていったのです。

しかし、そうは言ってもどうしようもない災難に襲われることもあります。

その一例が、平安時代末期に奈良を襲った平重衡(たいらのしげひら)らによる「南都焼討」でした。

平氏が奈良の地に勢力を伸ばし、本来奈良の大きなお寺が持っていた権益を脅かすようになり、お寺の僧侶が「僧兵(そうへい)」と呼ばれる武装勢力を結成し、平氏に対しても威嚇を行っていたのですが、そのような大きなお寺の姿勢に怒り心頭の平氏側からついに大軍が奈良に送られ、東大寺や興福寺などはおろか、奈良のまちもふくめて火の海に包ませたのです。

この戦いで、東大寺は大仏殿をはじめ多数の建築物が完全に焼け落ちてしまい、大仏本体も融けてしまうなど、東大寺の歴史上最大の大打撃を受けることになりました。

鎌倉時代以降の東大寺 ~南大門などの再建~

平安末期の焼き討ちで壊滅的打撃を受けた東大寺ですが、焼き討ちを行った「平氏」はほどなくして滅亡し、その後の主導権を握った源氏側、また朝廷は東大寺に協力的な姿勢を見せたこともあり、東大寺は比較的早いペースで復興が行われていくことになりました。

その中でも特に活躍した存在が「重源(ちょうげん)」さんと呼ばれるお坊さんです。

重源さんは様々な人々から再建に対する財政的支援を引き出し、中国由来の建築技術を利用して再建を推し進めるなど、実務家として非常に優れた人物でした。

そんな重源らの活躍により、文治元年(1185年)には大仏本体の復元が完成し「開眼供養」が行われたほか、大仏殿は焼き討ちから10年も建たないうちに、建久元年(1190年)に完成し、13世紀に入るころまでに大半の復興が成し遂げられました。

またこの時期には現在もその堂々とした佇まいで有名な「南大門」も再建され、南大門の中には有名な「仏師(仏像を制作する職人)」である運慶・快慶らにより短期間で造られた金剛力士像(阿吽)が安置されました。

その後も東大寺は仏教研究が活発になるなど復興を見せますが、室町時代に入ると火災などにより講堂などいくつかの建築物が被害を受け、失われることになりました。

また戦国時代に入ると、東大寺の近くに「多聞城」と呼ばれる豪華なお城を築いた戦国武将として知られる松永久秀(まつながひさひで)と、対立する三好三人衆、筒井順慶(つついじゅんけい)らの戦いである「東大寺大仏殿の戦い」があり、東大寺の境内で戦いが行われたため、二月堂など一部を除き、大仏殿をはじめ、戒壇院など東大寺の主要な建造物がことごとく焼け落ちる大規模な被害を受けることになりました。

江戸時代の東大寺 ~雨ざらしの大仏様~

東大寺大仏殿の戦いで大きな被害を受けた東大寺は、その後は鎌倉時代の重源らによる復興の時のようなスピード感ある復興は進みませんでした。

例えば、焼け落ちた大仏殿の後には雨ざらしになった大仏が残されましたが、この大仏は約120年に渡りそのまま放置されることになったのです。

再建が行われたのは江戸時代に入って半世紀以上経った時期であり、その再建には公慶上人と呼ばれるお坊さんが活躍しました、公慶上人はまず傷んだ大仏本体の修理に着手し、その後は幕府の協力も取り付けて、全国から再建への財政的支援(勧進)を募りながら大仏殿本体の再建に着手しました。

その再建は1708年(宝永5年)に完成し、大仏殿の規模はかつてのものよりは少し小ぶりになりましたが、この再建により、現在も使用されている大仏殿の建物が生み出されることになったのです。

近現代の東大寺 ~廃仏毀釈から復興へ~

さて、時代は移り変わり明治に入ると、特にその当初は国の宗教として神道を第一の存在に位置づけ、仏教を排除していく「廃仏毀釈」のうねりが生まれました。

廃仏毀釈のうねりは奈良でも強く、奈良の寺院では興福寺をはじめ多数の寺院が壊滅的な打撃を受け、大きな寺院の中でもその存在そのものがなくなってしまうようなケースも見られました。

東大寺もその影響を受け財政的にも厳しい状況に置かれ、東大寺の中でも一部の施設が失われることとなりました。

しかし東大寺は他の寺院と比較するとその打撃は軽いほうであり、廃仏毀釈のうねりが落ち着いて、国が仏教を排除するような状況がなくなる明治の後半ころからは、大仏殿の修理などが本格的に行われ始めるほか、「観光」スポットとしても次第に知られるようになり、復興が進められていくことになりました。

そして時代は大正、昭和へと移り、昭和48年(1973年)からは数十億円の費用をかけて大仏殿の大規模な修理が行われたほか、近年では東塔などの再建へ向けた調査が行われはじめるなど、更なる「復興」へ向けた準備が進んでいっています。

まとめ

以上、「奈良の象徴」の一つでもある「東大寺」の歴史をごく簡単にまとめてきました。

東大寺は、奈良市内のその他のお寺と比較すると、その規模や地位を、創建の時期から現在に至るまで比較的変わらずに守ってきた貴重なお寺です。

しかし、その歴史をまとめるとよく分かることですが、とにかく東大寺の建築物は、何度も焼け落ちています。

そして、その度に立派なお坊さんの活躍で時間を掛けてでもきちんと再建されてきたという確かな歴史も持っています。

つまり、今現在残っている東大寺境内の建築物は、そのような先人たちの苦労の上で目にすることが出来るものなのです。

私たちは、単なる「観光スポット」として気軽に東大寺を散策することが出来ていますが、その当たり前の空間には、そんな苦労の歴史が積み重なっている。

そんな事実は忘れないでおきたいものです。