【孝謙天皇陵】奈良市では少し珍しい「西向きの古墳」は二度即位した女帝の御陵

孝謙(称徳)天皇陵(高野陵・佐紀高塚古墳) 観光スポット・みどころ

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観光のご案内

市街地の真横にある静かな古墳

孝謙天皇陵(こうけんてんのうりょう・称徳天皇陵・高野陵・佐紀高塚古墳)は奈良時代の雰囲気を感じさせる「平城宮跡」からもそれほど遠くない近鉄「大和西大寺駅」の北東部に位置する古墳で、日本有数の規模を誇るいわゆる「佐紀盾列古墳群」に含まれる古墳の一つとして、成務天皇陵や日葉酢媛命陵とも隣接するかたちで立地しています。

古墳は巨大商業施設「ならファミリー」からも近い位置にあるなど市街地と隣り合わせの位置にありますが、この古墳より先のエリアは深い森に包まれた佐紀盾列古墳群の中心地となっており、この古墳も車道が近くにあるにも関わらず比較的静かな雰囲気を漂わせています。

二度即位した女帝は、「西大寺」の創建者としても知られる

宮内庁により被葬者として定められている孝謙天皇は、大仏建立に関わった聖武天皇と光明皇后の皇女であり、天平勝宝元年(749年)「孝謙天皇」として即位した後、天平宝字2年(758年)に一度母である光明皇后の看病を理由に退位して上皇となりますが、その後は藤原仲麻呂の乱に伴い流刑となった淳仁天皇に代わりに重祚することになり、天平宝字8年(764年)から6年程再び「称徳天皇」として二度在位した経歴を持つ女帝として知られています。

在位中には孝謙天皇時代には藤原仲麻呂を重用しつつ、上皇となって以降、仲麻呂との対立に伴い道鏡らを重用するようになったことで知られるほか、再び称徳天皇として即位するきっかけとなった藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)の際には四天王像の造立を発願、また現在も一大観光スポットとして知られる「西大寺」を創建し、仏教重視の政策を推し進めたしても知られています。

尚、孝謙天皇陵は奈良時代の古墳としては考えにくい「前方後円墳」となっているのみならず、その築造自体は「5世紀前半頃」であるとも言われ史実と一致せず、実際の孝謙(称徳)天皇陵は、西大寺の西側に位置している鷹塚山地蔵尊周辺などであるとする見解も示されおり、実際に現地は陵墓にふさわしい眺めの良い小高い丘となっています。

古墳の規模自体は全長約127メートル、後円部の全長約84m・高さ約18m、前方部の全長約70m・高さ約13m程度と、周辺に位置するその他の古墳と比較して特別大きなものではありませんが、大和西大寺駅から最も近い古墳として、市街地から歴史的空間への境界線上にある風景は、古代ロマンあふれる佐紀路めぐりの起点にふさわしい姿を見せています。

孝謙天皇陵(高野陵・佐紀高塚古墳)の風景

「ならファミリー」からすぐの位置にある古墳「孝謙天皇陵」

近鉄「大和西大寺駅」周辺は奈良市有数の商業地域となっており、人通りも多く車の流れも悪い市街地となっていますが、そんな西大寺エリアの拠点となる商業施設「ならファミリー」から北に少しだけ進んだ位置からは、田園や古い日本家屋が混在するのどかな風景に一転します。孝謙(称徳)天皇陵はそんな市街地と農村エリアといってよい地域の境界部に位置しています。

孝謙(称徳)天皇陵の鳥居

孝謙(称徳)天皇陵の最大の特徴は鳥居が「西向き」となっていることが挙げられます。奈良市内の古墳の多くは「南向き」がほとんどとなっており、西日に鳥居が照らされるような風景はなかなかお目にかかることはありませんが、この孝謙天皇陵に関しては古墳全体が西を向くような格好となっており、午後になると日差しが古墳全体を明るく照らし、古墳独特の薄暗い雰囲気を全く感じさせない風景が広がります。

次項では、交通アクセスについてご案内致します。

アクセス(電車・バス)

近鉄・JR線各駅からのアクセス

近鉄大和西大寺駅から北東に徒歩10分

近鉄平城駅から南に徒歩6分

周辺のみどころ・観光スポット

成務天皇陵から南に徒歩4分、日葉酢媛命陵から西に徒歩6分、山陵八幡神社から南に徒歩6分、山上八幡神社から西に徒歩7分、神功皇后陵から南に徒歩10分、瓢箪山古墳から西に徒歩11分、秋篠寺から南東に徒歩15分

孝謙天皇陵(高野陵・佐紀高塚古墳)周辺地図